向丘 追分一里塚跡
はい、どーも西片さんです。
今回は追分一里塚跡という場所について調べてみました。
追分一里塚とは集落や古墳のことみたいですね。
しかし、追分一里塚は具体的に集落だったのか、古墳だったのか、わかっていないようです。
中山道(今の本郷通り)と日光御成道(今の岩槻街道)との分岐点(追分)には、18世紀中頃まで
榎を植えた一里塚があった。一里塚とは、江戸幕府により日本橋を起点として一里(約4km)ごとの街道沿いに設けられたもので、土盛をして、駄賃の目じるしなどとして旅人に多くの便宜を与えた。
一里塚は通常、街道沿いに設けられたもので、土盛りをして、駄賃の目印などとして旅人に多くの便宜を与えた。
一里塚は通常、街道を挟む形で二つ造られた。当地では、街道を挟む形で二つ造られた。当地では、街道が二手に分かれるため、中山道に面した場所に一つ、日光御成道に面した場所に一つ、合わせて二つの一里塚造られた。
文政年間(1818~1830)の町方書上などによると、中山道に面した一里塚植えられていた榎は明治3年(1766)に焼失したとある。一里塚付近には庚申塔や塞神碑などが造られた。
引用( 文の京 文京区教育委員会 )
今は影も形もないありません。
追分一里塚跡
しかし、このような立札が!
この場所であることは間違いないようです。
どうやら静岡県にもあったみたいですね。
こんな近くに集落があったとは知りませんでした。
ではでは~