10.地震対策が色々あり過ぎてどれが良いのか分からんね。 その1

通りの左側は、旧耐震基準と思われる古い住宅が並んで倒壊し、道を塞いでいる。通りの反対側は新耐震基準導入以降と考えられる住宅で、外壁には目立った被害は見られない
出典:(写真:日経ホームビルダー様より)

地震対策に本気で取り組んだらいくらお金があっても足りません。また完璧に対策をしたからと言って絶対に倒れないとも言えないのが難しいところですね。

現在の基準をクリアしていても熊本地震の様に想定外クラスの地震が連発して起きれば倒壊する家も出るでしょう。ですのでもうコレは自己満足の世界で限られた予算の中でやれる事はやっておきましょう、と私は考えてます。

上の写真で示した住宅の向かい側に立つ、比較的新しい住宅。倒れた隣の家の影響で外壁の一部が傷付いたが、それ以外の建物被害は見られない
出典:(写真:日経ホームビルダー様)

そもそも今後100年の内に大きな地震が起きないカモ知らないですし、であれば木造住宅は先に朽ち果てるので無駄な投資となるかも知れません。でも記録の残ってる限り過去の地震年表を見ると大型地震は関東でも繰り返し起きています。

【東京の地震年表抜粋】 興味のある人だけ見てみて下さい。 年表古いのは記録薄くコメントが適当ですねw 地味に面白いですよ。

818年(弘仁9年)関東諸国M≧7.5 ○山崩れ谷埋まること数里、百姓が多数圧死した。従来、津波があったとされていたが、おそらく洪水であろう

878年(元慶2 /11/1)関東諸国M7.4 ○相模・武蔵が特にひどく、5~6日震動が止まらなかった。公私の建物には一つも完全なものがなく、地滑りで往還不通となる。圧死者多数。京都で有感。

1293年(永仁1 /5/27)鎌倉大地震鎌倉M7 ○鎌倉強震地震とも呼ばれ、関東一円に大地震が発生したとの記述もある。建長寺がほとんど炎上したほか、社寺仏閣が倒壊し、被害が出た。死者数千あるいは2万3千余人。余震が多かった。 

1615年(元和1 /6/26)江戸M6Q~6T ○家屋が倒壊し、死傷者多数、地割れを生じた。                             

1647年( 正保4 /6/16) 武蔵・相模M6.5 ○江戸城や大名屋敷で被害、死者があった。小田原でも城の石垣が崩れるなどの被害。余震が多かった。

1648年( 慶安1 /6/13) 相模・江戸M7.0○小田原城破損、領内で倒壊家屋が多かった。

1649年 (慶安2 /7/30)武蔵・下野M7.0 ○川越で大地震、家屋が700戸ほど全壊。江戸城で石垣など半壊。侍屋敷・長屋破損し、圧死者多数。上野東
照宮の大仏の頭落ちる。日光東照宮破損。余震日々40~50回。

1649年(慶安2 /9/1) 川崎・江戸M6.4 ○川崎駅で家屋140~150戸、寺7宇が倒壊。近くの村で 家屋が倒壊し、人畜の死傷多数。江戸でも被害。

1703(元禄16/12/31)元禄地震江戸・関東諸国M7.9~8.2 相模湾沿岸 地域 震源7関東地方南部:震度6 ○相模・武蔵・上総・安房で震度大。特に小田原で被害大きく、城下は全滅、12ヶ所から出火、倒壊家屋8千
戸以上、死者2300人以上。東海道は川崎から小田原までほとんど全滅し、江戸・鎌倉などでも被害が大きかった。津波が犬吠崎から下田の沿岸を襲い、溺死者数千。1923年関東地震に似た相模トラフ沿いの巨大地震と思われるが、地殻変動はより大きかった                          

1707年(宝永4 /10/28) 宝永地震東海 ○わが国最大級の地震の一つ。全体で少なくとも死者2万人、倒壊家屋6万戸、流出家屋2万戸。○震害は東海道・伊勢湾・紀伊半島で最もひどかった。○津波が紀伊半島(相模湾からとの記述もある)から九州までの太平洋沿岸や瀬戸内海を襲った。津波の被害は土佐が最大。津波で1万1千戸が流出した。○室戸・串本・御前崎で1~2m隆起し、高知市の東隣の地約20平方kmが最大2m沈下した。○遠州灘沖および紀伊半島沖で二つの巨大地震が同時に起こったとも考えられる。                

1782年(天明2 /8/23) 天明小田原地震小田原・南足柄市周辺、箱根山
周辺、神奈川件一体M7 小田原・南足柄市周辺:震度6~7神奈川県一体と箱根山周辺:震度5○月はじめより地震があり、15日に2度大震。小田原城破損、家屋約800余倒壊。箱根・大山・富士山で山崩れ。江戸でも倒壊や死者があった。熱海で津波があった。                         

1855年(安政2 /11/11)江戸地震(安政江戸大地震)江戸および付近M6.9 江戸:震度6 江戸湾の荒川河口付近○下町で特に被害が大きかった。地震後30余ヶ所から出火、焼失面積は 2.2平方kmにおよんだ。江戸町方の被害は、倒壊・焼失1万4千余戸、死者4千余人。瓦版が多数発行された。
○江戸湾荒川河口付近が震源。深川、本所、下谷、浅草等で激しい被害。武家を除いた死者は3895人(武家を含めると約7千人)、倒壊家屋は14346戸。
○[経済社会]奉行の対応:地震発生日の夜、同心支配役年番与力、市中取締掛・諸色掛与力、町会所掛与力の三役が混乱を避けるため、罹災者への炊き出し、売り惜しみ・買占めの禁止など9ヶ条の評決を実施。翌日から町会所で炊き出しを開始し、その他各所で避難民に握り飯が配られた。 ○[経済社会]御救米、御救小屋を提供。                            

1894年(明治27 /6/20)東京湾北部M7.0 ○青森から中国・四国地方まで地震を感じた。東京・横浜の被害が大きかった。神田・本所・深川で全半壊多く、東京で死者24人。川崎・横浜で死者7人。鎌倉・浦和方面にも被害があった。  

1923(大正12 /9/1) 関東大地震 関東南部M7.9 震度7 ○東京で観測した最大振幅は14~20cm。地震後火災が発生し被害を大きくした。全体で死者・不明者14万2千余、全・半壊家屋25万4千余戸、焼失44万7千余戸。山崩れ・崖崩れが多数発生。房総方面・神奈川南部は隆起し、東京付近以西・神奈川北方は沈下した。相模湾の海底は小田原-布良線以北は隆起、南は沈下した。関東沿岸に津波が襲来し、波高は熱海で12m、相浜で9.3mなど。○相模湾北西部が震源。正午直前(11:58)の発災であったため各所で火災が発生し、強風(風速15m)により被害が拡大。旧陸軍被服廠跡での焼死者・窒息死者3万2千。
・大正天皇:内帑金1000万円を復興資金として下賜
○[経済社会]金融:震災恐慌を引き起こす。銀行救済の為の震災手形が次第に膨張、インフレを助長○[経済社会]通信被害:電話通信網:電話機の64%失
われる。電話局15局壊滅。市外通話の臨時回線が繋がるまで5日、市内通話は8日までかかる。○[経済社会]この大震災を契機として、1925年に東京帝国大学構内に「地震研究所」が設立され、地震発生のメカニズムなどの総合研究が行われるようになった。                            

1983年(昭和58/8/8) - 神奈川・山梨県境M6.0○丹沢山地で落石があり、死者1人、負傷者8人。山梨・神奈川・東京・静岡の各県で負傷者合計33人、全・半壊家屋2戸。

以上

地震の度に建物にはダメージが残っていきます。地震はいつ来るか分かりませんがのでやれる事はやりましょうね。さて、お金を掛けて出来ることはやるとして、そもそもプライスレスなのは元々の地盤の強度であることは言うまでもないですね。

しっかし 1855年(安政2 /11/11)江戸地震(安政江戸大地震) の 売り惜しみ・買占めの禁止など9ヶ条の評決を実施とありますが現代でもトイレットペーパー買い占めたり高額転売したりと、時代は変わっても・・・なんですねぇ~w

散々ビビらせましたがこれまでの流れお鑑みると「地盤が強固土地」ってだけですでに何百万円の価値あると言うことです。いくら杭を入れて地盤改良したからと言っても理論上の話でありナチュラルに固いのとは訳が違います。

さて、そんな当地松が丘は三階建てにも関わらず地盤調査の結果、良好地盤につき改良する必要性なしとのお墨付きを頂いてる優良地盤です。もちろん地盤20年保証も付きますのでご安心を。

個人的なイメージですが三階建ての戸建ての場合、8割ぐらいが地盤改良判定が出ている感じがします(エリアにもよりますが)。

そもそも地震に強い家の条件ってご存知ですか?極端に言うと穴の開いてない四角い箱です。モノコック、ラーメン構造など聞くと思いますが分かりやすく言うと1階に壁がいっぱいある四角い箱なんです。

ですので一階に居室を持ってくれば自然と壁量が増えるので地震に対する強度が取りやすいです。って都内の狭小戸建は自ずと一階になってしまうんですけどね。

戸建ての場合耐震がメインで壁や床など面を頑丈に作り硬さで揺れに耐えるイメージです。究極窓のない家が強いのですが人が住むにあたり快適性が下がるんならどうかと思いますよね。

そして木造の良いところは木が適度にしなるんですね~、柔よく剛を制すでは有りませんが固けりゃ良いってもんじゃないのです。柔らかさで地震のPowerを逃して揺れを抑えます。

今回の松が丘戸建てには少し変わった形状の耐震金物が2つ組み込まれているのでご紹介致します。ちょっと長くなりましたのでその2でご説明しますねw



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